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国語に正解はあるか

「国語に正解はあるんですか」
理科の編集者に訊かれた。「正解などない」という反語の口調だった。
その疑問めいた批判は、知識問題に対してではなく、もちろん抽象的な読解問題に向けられたものだろう。
いかようにも読み取れるものに対して、解が一つであろうはずはない。
言いたいことはよくわかる。

国語教材に関わるスタッフのなかにも、「想像して答えよう」などと平気で解説を書く者がいるくらいだから、専門外の人が「想像するしかないものに、断定的な解答を設定している」と誤解していたとしても無理はない。

もっとも昔は想像で答えさせる傾向が強かったとも聞く。だが、現代国語の読解問題においては徹底して論理的なスタンスが要求されているように感じられる。
授業の中では自由な解釈が尊重されるとしても、テストやワークにおいては、論理性を欠いた作問は忌避される傾向が強い。ときにはいやらしいほどロジカルに読み解く。教材に取り上げられる論説文自身より、いっそう論理の整合性に厳格であるといっても過言ではない。

では、国語教材の読解における論理性とは何か。
言い換えるなら、それは「妥当性」ではないかと思う。

例えば、解答に該当する内容が本文に明示されていない心情問題などでは、絶対にこれという確定的な答えは存在しない。あるとすれば、それは書き手のなかにだけだ。
だが、妥当と判断できる解釈ならば存在し得る。

以下、奇問・悪問の溜まり場になりやすい『走れメロス』を例に、妥当性のある解釈なるものを示してみる。

 路行く人を押しのけ、跳(は)ねとばし、メロスは黒い風のように走った。野原で酒宴の、その宴席のまっただ中を駈け抜け、酒宴の人たちを仰天させ、犬を蹴(け)とばし、小川を飛び越え、少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も早く走った。一団の旅人と颯(さ)っとすれちがった瞬間、不吉な会話を小耳にはさんだ。「いまごろは、あの男も、磔にかかっているよ。」ああ、その男、その男のために私は、いまこんなに走っているのだ。その男を死なせてはならない。急げ、メロス。おくれてはならぬ。愛と誠の力を、いまこそ知らせてやるがよい。風態なんかは、どうでもいい。メロスは、いまは、ほとんど全裸体であった。呼吸も出来ず、二度、三度、口から血が噴き出た。見える。はるか向うに小さく、シラクスの市の塔楼が見える。塔楼は、夕陽を受けてきらきら光っている
「ああ、メロス様。」うめくような声が、風と共に聞えた。
「誰だ。」メロスは走りながら尋ねた。
「フィロストラトスでございます。貴方のお友達セリヌンティウス様の弟子でございます。」その若い石工も、メロスの後について走りながら叫んだ。「もう、駄目でございます。むだでございます。走るのは、やめて下さい。もう、あの方(かた)をお助けになることは出来ません。」
「いや、まだ陽は沈まぬ。」

問 傍線部「塔楼は、夕陽を受けてきらきら光っている」について、この描写からメロスのどのような心情が読み取れるか。

この設問を解くには、『走れメロス』の重要ポイントである“刻限の日没”に着目し、メロスの置かれている状況とせりふを把握する必要がある。
状況・・・刻限の日没が迫っている。フィロストラトスセリヌンティウスの救出を諦めるよう諭される。
せりふ・・・「いや、まだ陽は沈まぬ。」

これらから、メロスがこの状況に対してまだ望みを捨ててはいないことが読み取れる。傍線部の「きらきら」がメロスの目に映っている光景であり、肯定的なイメージを表現する言葉であることも裏づけとなる。
したがって、この問いに対する妥当性のある解釈(解答)は、「まだセリヌンティウスを救うことができる(=刻限に間に合う)という気持ち(=希望)」といった具合になるだろう。
このように、論理的に整合している場所を「問い」と「答え」の形で発見し提出するのが、読解問題を作るときの基本である。

実際の設問では、さらにこれを選択式にしたり、穴埋め式の説明文を付加したり、字数制限を設けたりすることで、解答に一定の方向づけを行うことが多い。
また、設問文に暗示的な文言(ヒント)を入れるなどして設問の趣旨を透過させ、解答の表現が狙いどおり絞り込まれるよう(採点がしやすいよう)誘導するのが定石だ。
だから、どういう風に答えても正解ということにはならないし、そうならないように作問するのが理想とされている。

一見無限にありそうな答えを限定するやり方は、パズルの手法と変わらない。 例えば、おなじみのクロスワードパズルは、タテ・ヨコのマスとカギが整合している。マスの数はあらかじめ決まっており、カギの内容にあてはまる言葉しかそこには入らない。
国語の読解問題もこれに似ている。
上記の問いでいえば、「情景描写」と「メロスの心情」はタテ・ヨコのマスである。設問文から、両者にはつながりがあること、つまり、タテ・ヨコのマスはクロスしていることがわかる。タテの「情景」マスはプレ文字で印刷されているが、ヨコの「心情」マスは空欄。さて、何が入るか。確認すべきはカギである。これを読まずしてマスを埋めることはできない。だが、クロスワードとは違い、ここは自力で探す必要がある。カギはどこにあるのか。本文の中だ。ここでは「状況」と「せりふ」がカギにあたる。 いずれも直接解答となる言葉ではないが、傍線部(マス)と密接にリンクしており、同じ意味合いをもつ。「情景描写≒メロスの心情≒状況・せりふ」という関係を見抜ければ、パズルよろしく答えを導き出すことができるという按配だ。

読解問題の「正解」は本文に明示されていない限り、絶対的なものではない。メロスの心を寸分の狂いもなく把捉し表現することは、読者である我々には不可能である。しかし、確かな傍証(リンクとカギ)があれば、妥当性のある解釈として示すことは可能だ。
是非はともかく、現代国語の読解問題で一応の正解として設定されているのは、この解釈にほかならない。少なくとも自分はそういう意識をもって制作している。

さて、これが、横槍が入って言いそびれた冒頭の批判に対する反論なのだが、時に主観的な曲解が正解として掲げられていたりすることがあるのもまた事実。殊に中学受験では道徳性のほうが重視され、論理性はおざなりにされがちだったりもする。
もしまた「国語に正解はあるか」と問われることがあれば、「論理的かつ客観的解釈に基づく妥当解はあるが、でたらめなのに正解面している答えが交じっていることもあって不快」と回答するのが正解かもしれない。